2015年10月9日金曜日

シンセサイザー

シンセサイザーの発明は、「ある時 誰かが 世界で初めて何かを発明し、その成果が後に世界中に広がった」という出来事ではない。100年以上にわたる電子楽器の歴史の中で、多くの人々が試行錯誤を繰り返し、時としてほぼ同じものがあちこちで再発明されながら、技術の蓄積と概念の洗練が進み、途中、戦争による停滞や技術者の世代交代を挟んで、1960年代以降マイクロ・エレクトロニクスと共に急速な発展を遂げて、現在の形になった。

出発点は19世紀末に遡る。最初に登場したのは発電機や電話を応用したシステムで (Music Telegraph(1876))、次に有線音楽配信を狙った巨大システムが構築された (テルハーモニウム(1897)、重量200トン)。20世紀初頭、真空管が発明されラジオやトーキーの実用化研究が本格化すると、ラジオ技術 を応用した楽器 (テルミン(1917-1919))や、トーキー技術 を応用したサンプラーの祖先(Optophonic piano (1916-1924)) が登場した。遅くとも1920年代初頭には楽器用低周波オシレータが登場し、それをリボンコントローラや鍵盤で演奏する電子楽器が登場した (トラウトニウム(1929)、オンドマルトノ(第2世代, 1928))。これらの楽器は後の改良の結果、現在ではシンセの祖先と見なされているが、登場当時は非常にシンプルでシンセサイザーと呼べる物ではなかった。

1930年代にはシンセサイザーの基本要素が出揃い (フィルタ/エンベロープ/加算合成/ポリフォニック)、初期のシンセサイザー時代が開幕した (ノヴァコード(1937))。ただし当時のフィルターは、パッシヴ回路が主流でその効果は緩やかなため (6dB/oct.)、1970年代アナログ・シンセのように強力な音作りの手段にはならず、むしろ他の合成方式や発音方式 、(倍音加算合成や副倍音加算合成、生楽器の発音機構を使う電気楽器等) の音色調整として補助的に使われる事が多かった。この時期に登場した、ミニモーグのような機能と外観を持つ楽器(コンサート・トラウトニウム(1936)、ミクスチュア・トラウトニウム(1952))もその一例である。
ポリフォニック楽器の分野では、当初はトーンホイール(英語版)方式や ピックアップ方式が有力で、特に倍音加算合成をトーンホイールで実現したハモンド・オルガン (1934)は一大勢力となり、この分野で40年以上勢力を維持した。電子楽器では「分周回路」と「フィルターによる減算合成」を組合せた新しい楽器が登場し (ノヴァコード (1937))、これ以降多くの電子オルガンが同方式をベースとした倍音加算合成を提供した。ただし当時のオルガンの多くが採用した全鍵発音方式は、当時の実装技術では規模が巨大化しがちなため、個々の音響合成回路はごくシンプルに抑えられ、音色表現能力は限定された。
そこで高度な表現力を要するリード演奏専用に、単音で小型の電子鍵盤楽器 (Solovox(1940)他) が登場した。これは オルガンやピアノの鍵盤近くに設置して合奏する小型楽器で、その演奏スタイルは後に、電子オルガンのソロ鍵盤や、電子オルガン上に置くプリセット・シンセに発展した。

このほか同時期、1939年ニューヨーク・ワールドフェアでヴォコーダ(1928年通信用途で実験開始)や鍵盤演奏型のスピーチシンセサイザー(Voder)が一般公開された [1]。しかし同年勃発した第二次世界大戦により各国は戦時体制へ移行し、ヴォコーダは軍の暗号通信装置(SIGSALY)に利用され、アメリカの電子楽器開発者は爆撃誘導装置やレーダーの開発に駆り出され、ドイツの電子楽器研究拠点ハインリッヒ・ヘルツ研究所では、職場のユダヤ人排斥に反対した教授が職を追われ、そうして世界の電子楽器開発は停止した。
1945年に戦争が終わると、ドイツの電子音楽スタジオが即座に活動を再開し、またドイツで実用化されたテープレコーダを使って音を切り貼りするミュージック・コンクレートがフランスに登場し、現代音楽という新しいキーワードの元、電子楽器が息吹を吹き返した。

1950年前後、軍事技術だったコンピュータが世界に広がると共に、コンピュータ音楽が登場した。当初は曲の自動演奏が試みられ、次に高い計算能力を生かして確率的作曲や音響合成に応用された。1957年マックス・マシューズのMUSICプログラムは、ディジタル音源とソフトウェア音源の元祖と認識されており、後にその上でFM合成を含む多くの研究開発がなされた。同じ1957年には「シンセサイザー」という名を初めて使ったコンピュータ用音源「RCAマークIIサウンドシンセサイザー」も登場している。その基本構成は現在のアナログ・シンセサイザーとほとんど同じで、出力される音は初期のアナログDTM音源のクオリティに到達していた。

1952-1958年、音楽家レイモンド・スコットが開発した「クラヴィヴォックス」は、鍵盤の他にR.A.Moog社のテルミンを流用したコントローラを装備し、後には電圧制御式シーケンサも追加された。後にモーグは、クラヴィヴォックスの回路や音が 60年代のモーグ・シンセサイザーとよく似ていたと語っている。




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2015年6月23日火曜日

楽器(機能による分類)

主旋律と和声的伴奏を同時に弾ける楽器を「完全楽器」と呼ぶことがある。

完全楽器 - 西洋音楽の3要素であるリズム、メロディ、ハーモニー(和声)の全てを1台で同時に演奏できる自己完結性をもつ楽器。合奏はもちろん、ホモフォニー音楽やポリフォニー音楽の独奏楽器としても使用可能な楽器。【例:一部の鍵盤楽器(ピアノ、オルガン、アコーディオン、コンサーティーナ、バンドネオン等)、一部の弦楽器(クラシック・ギター、クラシック・ハープ)等】

不完全楽器 - 西洋音楽の3要素のうち1部の要素の演奏に特化した楽器。単旋律楽器やリズム楽器(打楽器)など。他の楽器との合奏で使われることが多い。【例:フルート、トランペット、大正琴、カスタネット等】

完全楽器と不完全楽器の境界線は曖昧である。例えば、一見すると不完全楽器であるヴァイオリンも、和声伴奏部をアルペジオで崩して弾いたり、バッハ弓を使うなどの裏技を駆使すれば、完全楽器に近い演奏が可能である。



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2015年6月8日月曜日

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは、ドイツの作曲家。バッハ等と並んで音楽史上極めて重要な作曲家であり、日本では「楽聖」とも呼ばれる。その作品は古典派音楽の集大成かつロマン派音楽の先駆けとされている。

1770年12月16日、神聖ローマ帝国ケルン大司教領(現ドイツ領)のボンにおいて、父ヨハンと、宮廷料理人の娘である母マリア・マグダレーナ(ドイツ語版)の長男として生まれる。ベートーヴェン一家はボンのケルン選帝侯宮廷の歌手(後に楽長)であり、幼少のベートーヴェンも慕っていた祖父ルートヴィヒの支援により生計を立てていた。ベートーヴェンの父も宮廷歌手(テノール)であったが無類の酒好きであったため収入は途絶えがちで、1773年に祖父が亡くなると生活は困窮した。1774年頃よりベートーヴェンは父からその才能を当てにされ、虐待とも言える苛烈を極める音楽のスパルタ教育を受けたことから、一時は音楽そのものに対して嫌悪感すら抱くようにまでなってしまった。1778年にはケルンでの演奏会に出演し、1782年11歳の時よりクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェに師事した。

1787年、16歳のベートーヴェンはウィーンに旅し、かねてから憧れを抱いていたモーツァルトを訪問したが、最愛の母マリアの病状悪化の報を受けボンに戻った。母はまもなく死没し(肺結核)、母の死後は、アルコール依存症となり失職した父に代わり、仕事を掛け持ちして家計を支え、父や幼い兄弟たちの世話に追われる苦悩の日々を過ごした。

1792年7月、ロンドンからウィーンに戻る途中ボンに立ち寄ったハイドンに才能を認められ弟子入りを許可され、11月にはウィーンに移住し(12月に父死去)、まもなく、ピアノの即興演奏の名手(ヴィルトゥオーゾ)として名声を博した。

20歳代後半ごろより持病の難聴(原因については諸説あり、鉛中毒説が通説)が徐々に悪化、28歳の頃には最高度難聴者となる。音楽家として聴覚を失うという死にも等しい絶望感から、1802年には『ハイリゲンシュタットの遺書』を記し自殺も考えたが、強靭な精神力をもってこの苦悩を乗り越え、再び生きる意思を得て新しい芸術の道へと進んでいくことになる。

1804年に交響曲第3番を発表したのを皮切りに、その後10年間にわたって中期を代表する作品が書かれ、ベートーヴェンにとっての傑作の森(ロマン・ロランによる表現)と呼ばれる時期となる。その後、ピアニスト兼作曲家から、完全に作曲専業へ移った。

40歳頃(晩年の約15年)には全聾となった。また神経性とされる持病の腹痛や下痢にも苦しめられた。加えて、非行に走ったり自殺未遂を起こすなどした甥カールの後見人として苦悩するなどして一時作曲が停滞したが、そうした苦悩の中で作られた交響曲第9番や『ミサ・ソレムニス』といった大作、ピアノ・ソナタや弦楽四重奏曲等の作品群は彼の未曾有の境地の高さを示すものであった。

1826年12月に肺炎を患ったことに加え、黄疸も発症するなど病状が急激に悪化、病床に臥す。10番目の交響曲に着手するも未完成のまま翌1827年3月26日、肝硬変により56年の生涯を終えた。その葬儀には2万人もの人々が駆けつけるという異例のものとなった。この葬儀には、翌年亡くなるシューベルトも参列している。





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2014年12月10日水曜日

英会話教室について

英会話教室とは、英語を会話を通じて習得する日本国内の塾で、1980年代以降急速に広まったとされます。

従来から、NHK教育テレビジョンとNHKラジオ第2放送で、英語をはじめとする主要な言語の語学講座番組が放送されているが、放送という形態上、一方的な受身の形になってしまい、学習効率は低いものであった。また、日本では、中学校・高校の英語教師の語学レベルが総じて高くなかった上に、そこで教えられる外国語は受験英語と揶揄されるほど実践的ではなく非効率な部分が多かった。それでも、中学校・高校・大学などの教育機関の他には、一般の人が英語などの外国語を学べる機会は、非常に少ない状態であった。

1980年代以降は、日本人の平均的所得が増大した一方、航空運賃等の費用面での安値安定傾向から、海外旅行が身近なものとなった。さらに社会や経済のグローバル化が進み、日本企業の世界各地への進出や商取引の拡大、日本における外国人労働者の増大(ただし日本における外国人には中国語やポルトガル語などを母語とし英語を理解しない者も多い)など、英会話を行う機会は確実に増大していることが背景となって、これらの教育サービスが普及した。さらに、1990年代以降、雇用保険による教育訓練給付制度の補助の対象となり、英会話など外国語教室の拡大に拍車がかかった。

しかし、日本人に特有の英語苦手コンプレックス(外国語が苦手とする劣等感を含む)もあって、英語を聞くだけで思わず身構える人も少なくはない。このため同種サービスには特有の根強い市場が存在し、英語以外の外国語にも対応した数多くのフランチャイズ・チェーン英会話教室が、鉄道の駅周辺(駅前)にある繁華街やショッピングモールに軒を連ねている。



大阪 インターナショナルスクールスプリングスクール 大阪サマースクール 大阪LBP

2014年8月21日木曜日

ビーイング当時のスタジオ風景

1993年当時、ビーイングの拠点は六本木にあり、そのスタジオでの様子をセピア調のジャケットや歌詞カードにして、TV露出を行わないながらアーティストイメージを印象付けた。レコーディング用マイクの前、ミキサー卓での作業風景、ギターやベースの楽器を持つ、ドラムセットに座るなどの姿を採用しているケースが多い。しかし、1997年頃からこのような写真はあまり使われなくなっていく。


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2014年4月18日金曜日

神原卓が出産にまつわる言葉を紹介

胎児がその種の標準に照らし合わせて十分成熟して体外に出る場合を正期産と呼ぶ。正期産に至るまでの期間や出産時の成熟度は種によってまちまちである。標準より早い場合は「早産」、さらに事故に近い場合を「流産」、遅い場合は「過期産」と呼ぶ。

出産前、あるいは最中に羊膜が破れ、羊水が出ることを破水(はすい)という。出産後、胎盤等が排出されることを後産(あとざん・のちざん)という。

分娩が比較的楽にできる場合は「お産が軽い」、何らかの困難を伴う場合は「お産が重い」という言い方をする。カンガルーのようにごく小さく産む種では出産は軽いが、大型草食動物のように胎児を十分に成長させてから出産する場合や、ヒトのように骨盤底骨が発達している場合、骨盤下口が胎児とくらべて狭いので、胎児が大きい場合出産は重くなる。ヒトの中でも初産年齢や恥骨結合の状態などで個体差が著しい。






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2014年3月18日火曜日

理学療法士の雑学

理学療法士の免許を受けている者は、教育職員検定により特別支援学校自立教科助教諭の臨時免許状が与えられる制度がある。

臨時免許状取得者は定められた経験、単位修得により普通免許状が与えられる。


理学療法士(PT)新卒